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津島英征による「しなる建築」評:事故と、その「まわり」


 津島英征(早稲田大学大学院)による「しなる建築」評:事故と、その「まわり」です。



 

「しなる建築」評:事故と、その「まわり」

1 はじめに:「いまここ」の外側へのまなざし  身体は本来、揺れる。揺れに気を配らなければ私たちはすぐに、身体の小ささ、軽さ、もろさを忘れてしまう。しかし私たちが生きるいまの社会は、身体が揺さぶられる体験を、遊園地やフィットネスクラブやゲームセンターの中にしまいこんでいる。それはそうした体験が危険であり、不快であり、効率的な作業と相性が悪いからだ。

 他方で私たちの注意力には限界がある。近年盛んに交通事故の報道がなされているように、都市社会では人生を脅かすあまりに多種多様なリスクが取りざたされるが、それらすべてに構ってはいられない。  そのため私たちは、逐一リスクを報告してくれるテレビの中の出来事と「いまここ」の出来事を切り分け、後者においては注意力を代替するような、例えば信号機への無意識の信頼の中に生きている。社会システムが上手く動いている間に、自らが携えている「信頼」は意識すらされない。交通事故に遭遇、目撃でもしなければ、私たちの目はそれらに対して開かれない。

2 評論:しなる建築のまわりにある企て  作者によれば、「しなる建築」は都市社会の中に人々の身体性を取り戻すためのアイデアだそうだ。本作は「いまここ」の中にあり得ない「揺れる床」をハプニングとして提供し、社会システムによって覆い隠されたものを暴露する工夫の表現であり、実践に向かう検討である。交通事故への遭遇や目撃などよりも穏便に、それがどのように可能か。そうした視座から、作品の建築的工夫を、シーケンスの中に見出すように整理してみよう。

 【1】1つめの工夫は、私たちの日常と「しなる建築」を地続きに結びつけるアプローチである。「しなる建築」はアプローチもなくすんなりと立っている。テーマパークの仰々しいエントランスも、フィットネスクラブの着替えも、ゲームのオープニング動画もなく、私たちが無自覚に信頼している日常の一部である代々木公園と地続きで現れる。日陰や雨宿り、ちょっとした興味が来訪者を建築の一階部分に誘いこむときに、床は揺れない。

 【2】2つめの工夫は言うまでもなく揺れる床と影によって、私たちの意識と大地と光と風との関係を崩し、注意力を開くことである。揺れは2階に到達した途端に始まる。忘れていた体の重さと軽さをよろめきながら思い出し、一歩一歩ゆっくりと揺れる床を歩く。一応機能は展望台とのことだから、人々そのままてんとう虫のように階段を登り、上の階へと順番に床を揺らしながら、最上階に向かうのだろう。そのあとには、開かれた注意力をもって、日常を見つめ返す視点が提供される。パースには、建築から外を眺める視覚には、鮮やかな緑とスモークのかかったような高層ビルの風景の対比が収められている。

 【3】3つめの工夫は、去り際に現れる。しばらく過ごして飽きたら出るのだろう。先ほど踏みつけた床がまだゆっくりと揺れている。さて、揺れる床に慣れたのち、去り際に何の気なしに踏みしめる大地は、まるでフィクションのように普段の安定感を失い、来訪者を裏切る。これはしばらく、自ら揺らした床が動きを止めるまで続く。また振り返ると、先ほどまで揺れる床に四苦八苦していた自分の姿をそのまま再現したような、後続の来訪者の姿を建築の中に見ることができる。

 【4】4つめの工夫は、もっと遠くに現れる。若者は、彼らの縄張りの中にできたこのめずらしい建物を、SNSで共有しないわけがない。自分や友人が揺れに慌てる様、いたずらに床を揺らそうとする努力、意味ありげな光の揺らぎなど、建築体験の副産物の残りカスを映像に収めて、友達の注意を惹くに違いない。いいね!をつけたことを忘れた頃、ふとした時に代々木公園に訪れたその友達は、興味本位で建築の中に立ち入るところから、この建築に凝らされた工夫を1から体験することになる。

 「しなる建築」は展望台である。これが「地震体験タワー」だったり、「体幹トレーニングジム」だったり「トランポリン系遊具」として代々木公園内にあったならば、その体験が与えるインパクトは、テレビの中の交通事故の報道とさして変わらないだろう。作者によるアーキタイプの選択は、来訪者を身構えさせない工夫となり、ただ揺れるだけのことをハプニングに昇華する一助となっている。その意味で、来訪者が身構えぬよう、巧妙にアプローチを隠したシーケンス【1】はひとつの山場である。またシーケンス【3】は、明らかにもうひとつの山場である。さらに、平面計画すら純粋幾何学となっており、極力意味が示唆されないような工夫がなされている。

 つまるところ「しなる建築」自身はただただ無目的に、無意味に「しなる」だけである。シーケンス【2】や【4】における人々の勝手な右往左往と、大地と風と光と身体の関係への気づきを支えるのは、明らかに建築のまわりにある企てである。つまり意外にも本作の核心は揺れる床や光や風にではなく、目的性の演出やルールの設定・説明などの「身構え」を極力要求しないように設計された、シーケンスの起点と終点にあるのではないだろうか。

3 さいごに:「日常への信頼」への気づき  最後に。私はこれを書いている2週間ほど、交通事故を目撃した。  そのとき私は車の助手席に乗っていた。環状8号線の横断歩道の信号が青から赤に変わる直前に、ひとりの主婦が、対岸のコンビニエンスストアに向かって走り出した。紺色の乗用車が、切り替わった信号に従って、スピードを落とさずに横断歩道を通り抜けようとしたとき、車の影から飛び出した彼女と接触する。彼女の身体は重さを感じさせずに宙に舞い、その隣の車線で走り始めた私の車が、ちょうど現場を通り過ぎた。

 その一部始終は、私に振動も音も色彩も鈍く伝わり、いやに客観的に、教訓じみているように感じられた。事故そのものよりもむしろ私と外界が、車窓の薄いスモークに隔てられていたことをはっきりと意識させられ、それは私が無意識に抱いてきた信頼そのものとして意味付けられた。一連の風景に気付いたのは家族の中で私くらいであったので、車はこともなげに、制限速度で目的地に向かう。あるいは家族たちはそれに気付いていたが、あえて話題に上げることを避けたのか?

 その日から今日まで、私の目は車の動きと共に、自らの中に巧妙につくられてきた日常への信頼そのものを注意深く捉え続けている。

 このように、社会への信頼を裏切られる体験や、リスクへの気づきの体験は、本来誰も見たくない、共有したくもないものである。しかし本作品は「気づき」のまわりを入念にしつらえることにより、少なくともネガティブな形を避けて社会に挿入しようとする。それが果たしてどれだけアクチュアルになり得るのか、監視社会またはコミュニティが全てのリスクを解決してくれると信じる以外の道をどのように拓くのかは、修士計画としての本作をこえて今後活躍するであろう作者の実践に委ねられている。



津島英征(1994-) 早稲田大学建築学科を卒業後、同大学院にて都市論・都市計画研究。社会科学・人文科学の見地から都市の豊かさ、課題意識を根本から問い直し、都市計画の前の「かたちになる前の思考」をともに追求する「空間×言論ゼミ」にて、これまで「都市の未来像の変遷」「地元愛の存立構造」「高田馬場の場所感覚」「ワーク・ライフのリミナリティ」「食の経験」などのテーマで研究を企画・推進/指導/議論する。 早稲田大学重点研究領域機構「MBT」にて大阪・奈良のまちづくりを推進。 現在は同研究所にて2017年度に企画・推進した「まちなじみ」論をテーマに論文を執筆中。


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